昭和41年01月21日 夜の御理解



 信心さして頂く者は教が本当に身に付いて来なければ、身に付いて来ると言う事は、御教を、矢張り頂かなければ血にも肉にもならないと思うんですよ。今日久保山先生所の、長男の茂さんが、久留米に行きよりますとお届けして、帰りにあの、これを表装して来たいと思いますからて言うてから出すのです、あたくしは忘れてしまっておったけれど、去年の十月頃だったでしょうか。私しあの、ある人の手紙の裏に、教祖の神様の御理解、御神誡、御神訓と言った様な中から、十何箇条か書きましてね。
 これならばもう本当に本気になれば誰でも、これが行じられると言うのから、よって十何箇条、私しが一つ、何々と言った様な風にですね。例えばあの御地内をみだりに汚すなよ。と言った様な御教がありますよね。御道の信心さした頂く者でも、やはり御地内を平気で汚しておる人がありますよ。もうちょっと唾とか、御水、小便なんかを平気で垂流したりしておる人があります。
 どんなに考えたってです、天地の親神様を拝まして頂いておる者がね、そんな事出来る筈がないのだけれど、なら金光様の御信者の中に、それを実行してない人がどの位い沢山あるか分らないと言う。よその教会の御信者がたがようお参りして来て、丁度窓をふと向う方の所へ、立ち小便しよんなさる。便所はここにあるのに。それはもう山とか川とか行ってです。その山にない時にゃお断りをしてから。
 ですけれどもこの辺のところを、私しは例えばそう言う様な意味合いでですね、本当に今日からはもう御地内は汚がさんぞと言う気持ちになったら、汚がされん事はないです。その実行出来ん事はないです、その実行出来ないちった始は窮屈でも、それを実行さして頂きよる内に、自然自分のものになってしまうのです。そん中から十何箇条かをですねあたくし書いてから茂さんに丁度、書き終った時に茂さんが参って来ましたもん。そん時それを私くしがほんにあげとった言う事を思い出さして頂いたんですけれども。
 どうでしょうか、お互い信心さして頂いておって、まあ一箇条か二箇条でも、これだけは教祖の御教を行じ抜かして貰って、自分の血肉になっておると言う様な人が、本当に少ないです。信心する者は。何事にも信心になれよと、仰るからせめて、私くしが書いとる。あの、十何箇条位いはです、あれまあ本当言うたら教えて下さる全ての事が、自分の物になって行く稽古しなければならんのですけれども、先ずやろうと思えばやれる。と言った様な、その御教を自分の物に、先ずして行かなければいけない。
 そこから私は信心する者、何事にも信心になれよと言う。例えば、十何箇条のその御教を、自分の物にしておったらです。それが必ず私しは信心になれると。何事にも信心になれるとこう思うのですよ。でないとですね、ちょっとしたミス、チョットしたの油断と、そっから大変なおかげおとしの、元がでけてくるんですからね。皆さん、あの西日本新聞の夕刊に、火の化粧と言うのが載ってきよる。
 皆さん御覧になっとるでしょうか。私しは時々読まして貰うんです。舟橋聖一さんの、まあ小説なんですね、私しは、時々読むのですから、その名前も良く覚えて居りませんし、ですけれどそのある侍い上がりの人が非常に文筆が達ので、その時代の江戸城の大奥をですね、いわゆる江戸城、千代田城のですね。大奥の事をすっぱ抜いてです。それを源氏物語に書き変えて、小説を書いたんですね。
 もうそれがもう大変な、その売れ行きだった訳。所があまりにもその極秘になっておる、その大奥の事柄が、その見て来た様に書いてあるもんですから、怪しまれましてですね。その人が今度恐らく、断罪になる訳けでしょうが、その断罪になると言う時の、その決まる決まらないと言う所の具合がです、昨日そこんところ書いてあるんですね。あるそのまあ一番権威のある、まあ大将とまあその次位の人が話し合って、お酒を頂きながら話し合っておるんです。
 下の者はどうでもあれを、もう市民のその懲らしめの為にでも、その断罪にしなければならん、縛り首にしなければならないと言っておるわけです。所がその、太平の夢を見て来た、何百年のその江戸の時代に、そのそうゆう殺伐なですねその獄刑、極刑をそのして、皆んから、悪い思いをされたくないという気持も上役人にもある訳なんです。そこん所を、その今日はそのどうでも、そこん所を決めて頂かなければならんて言うて、もう、長が々とお酒を飲みながら、二人で対談をしておるのです。中々その良い方が、「ウン」と言って返事をせんのですね。極刑にすると言う事を。
 そこへです、その上の方のその殿様のその、殿様と言うかね上役の方の人に手紙が来るんです。丁度会談中に。その手紙はですね、自分のいわゆる、色女からの手紙が来る訳なんです。それをその、それの前でその見たけど内容を読みたいけれども、そのそれがおるから読まれやせん。そこでです、これがたった読みたいばっかりにですね、それを決めてしまうと言う筋なんです。
 そんならもうその事を、お前に任せよと、こうゆうもうそれまで何時間て言う時間をかけてです、それは極刑にするかしないかと言う事をです。人間の運命と言った様な、こんなもんじゃなかろうかと思うです。こら小説ですけどそんなもんですよ。例えば、試験でもそうです。これを、通そうか通すまいかと。本当その人のですね、もうチョットした神様の働きと言うかね。
 良いタイミングを頂けば合格、悪いタイミングになってくれば、不合格と言う事になるんですよ。私しゃそれを読んでですね、本当にこの人間の運命と言う物は、こんなもう所謂極刑と言う事に決まってしまって、まあ小説ですから嘘の様ですけれども、実際その問題はどうしても同じ事が、言えるのじゃないかと思うんです。それから私し今晩の所読まして頂いたら、種彦のその人気作家として、大変な人気がある。どんどんその何て言うのですかねお金が沢山入って来る。
 それで新築をする。もうそん当時の小説家でですね、もう内職しなければ食べられないと言うのが実情だったらしいですね。所がその時代から、あの人気作家と言うのが、大変な収入がある様になったんだそうですが、その収入で新築をしてる所に。その( ? )と太鼓の襖絵の情景が書いて御座います。今日は。そしてそのこの家をね。こんな家を建てたからと言って、もう何かに付けて、そのいらいらしておる。評判が良いと言や思い上り、少し誰かが悪評したら、それをその家内に当り散らかしてですね。
 そしてこげな家をお前が思い立って、何々を建てたって言った様なその建てた家に対してまで、不平不足を言っておると言う様な、情景の所が、今日の夕刊に出ております。私しそれやらこれやら、思わして頂いてははぁ成程なあ、人間の思い上り立派に新築は出けた、でけれど、でけたらでけたでそこに、不平があり不足がありそうゆう所には、片一方んめいたった、そう言う様な事の中から。
 もういわゆる打ち首になるか、ならないかと言う様な問題が、自分は知らん間にむこうの方では、そういう運命で進んでおると言う事なんです。信心さして頂く者成程なに事にも信心にならなければ、おかげの切っ掛けも作る事が出来ない。けれどもおかげは、切っ掛けは作って、段々おかげを頂いて行きよりましてもですね、ちょっとしたその油断がです。おかげ落としの切っ掛けになると言った様な事を思うだけでもです。
 私し共は、いかに御教が身に血に肉になった生活と言うものをして行ければ、そこにはおのずと構えが出来る。油断がない慢心をしない、大怪我の元と言うものを作らんで済む。と言う様なおかげを頂けると思うんですね。私今日久保山さんが十何箇条の、あの一ぺんだけこうほんにこれを、私し確かに私しが書いたのじゃ、これをほんに読んで見てから。成程これだけの十何箇条の。
 これだけだったら本当本気で行じようといゃ、行じられる御教えばかりだなぁと思うて改め、見せて頂いてこの位いぐらいは折角信心さして頂くならば、自分の物になってしまわなければ、いけないのだけれど。何十年信心しておるけれども、本当言うたら、一ヶ条の御教えも、自分のものになってないと言う人が、どの位、あるか分かりません。中途半端だと言う事。拝む道や、修行やらの道は覚えてもです。
 御教えそのものが、血、肉になっとらない。そこに私しは、本当におかげの受けられない元、いわゆるおかげ落しの元と言うのが、人間の運命と言うものはです、その小説の中から、私感じたんですけれども 本当にたったそう言う様な事からです。人間のその岐路と言うかね、幸不幸の岐路と言うのが、別れ道があるんだと、そうゆう時に、例えて言うならば、反対の事になっておって。イヤ俺はもう殺す事は止めたと上の人が言う様な事が、ちょっと起っておったら助かってた。
 したらその色女の手紙を見たいばっかり、会いたいばっかりで、もうすぐ何時間て言うて苦心しておった事が、もうそんなら、その方にまかせると言うてしもうた。と言った様な事で人間の運命がです、そげな軽々しく、そら小説だからと言うてそんな事、ないです。もう本当に、そう言う様な事があるんです。そこに、神様の万事おくり合わせを頂く為にもです、私し共の心が何時も神様に向うておる。御教を行じておる時こそ、神様に全身全霊打ち向うておる時なのですから、良いタイミングのおかげを頂かれても、悪い方の事にはお繰り合わせが頂けると、言う様な風に、まあ感じるです。
   どうぞおかげ頂かねばいけません。